2012年2月19日日曜日

「ムエタイの日」は2月6日なの?


立ち技世界最強と言われるムエタイ。格闘技ファンならば、そのすごさをよく知っていることでしょう。けれども、2月6日が「ムエタイの日」であることを知っている人は少ないのではないかと思います。何を隠そう、タイ人の私も今日まで知りませんでした。ということで、いろいろ調べてみたところ、なんだか納得できないことが多々です。

“ムエタイの父”は、ナーイ・カノムトム
中学校の社会科の試験で、“ムエタイの父”と称されるのは誰か?という質問がよく出されます。暗記だらけで面白くない社会科の時間ではだいたい隣の子とぺちゃくちゃしゃべっていたか、教科書を立てて机に向かって寝ていたかの私でも、「ナーイ・カノムトム」と即答できます。

ナーイ・カノムトムは1750年、アユタヤのバーンバーン群に生まれ、10歳のころ両親や兄弟がビルマ軍によって殺されたため、寺院暮らしをしながらムエタイを身につけました。ビルマ軍の焼き討ちでアユタヤ朝が陥落した1767年、捕虜としてヤンゴンに連行され、なおムエタイの腕を磨きつづけていました。そして、シュエダゴン・パゴダの修復工事の完成を記念した1774年3月17日、当時のビルマを支配していたシンビューシン王(1763-1776在位)の前で試合を行ったところ、いっきに9人のビルマ軍を倒して優勝を収め、王からご褒美としてアユタヤに帰還させてもらったとか。以降は、ナーイ・カノムトムが伝説の人となり、いつしか“ムエタイの父”として拝められるようになりました。また、故郷のバーンバーン群では銅像もつくられ、毎年3月17日には「ムエタイの日」として行事が催されてきました。このナーイ・カノムトムの秘話は映画やテレビのホームドラマにもなり、お茶の間からの人気を集めてきました。

もう一つの伝説・プラチャオ・スアーの話
ラーチャダムナーン・スタジアム
今年2012年2月6日、バンコクの文化ホール内にて「ムエタイの日」の催しとして、ムエタイのいろいろな流儀の大元が集まり、それぞれ技を披露したり、ムエタイに欠かせない「ワイクルー」=師匠に捧げる舞が200人のムエタイの卵たちによって繰り広げられました。ところが、ステージにはナーイ・カノムトムではなく、プラチャオ・スアー(1703-1709在位)の写真が飾られ、ムエタイを教える師匠たちもステージに上がってはそれに手を合わせ、技をみせていました。

へえ?中学校の社会科の授業でほとんど寝ていたせいで、ナーイ・カノムトム説が間違っていたのかと一瞬思いましたが、どうもムエタイに長けて自らも庶民に化けては各地で試合に出ていたという伝説のあるプラチャオ・スアーをたてて、即位の日の2月6日を文化省が2011年、「ムエタイの日」に定めたようです。確かプラチャオ・スアーのムエタイ好きという伝説も習ってはいたものの、ムエタイと言ったら、ナーイ・カノムトムだったのに、なんだか釈然としません。不思議なことに、今のところ公式にこの件で文句を言った人がいないようです。

古式ムエタイのそもそもは護身用
ムエ・チャイヤーの練習を受ける若者も
そもそもムエタイは、軍人の間で実戦格闘技として13世紀のスコータイ王朝からあったと思われますが、一般庶民の間で盛んに教えられていたのは、アユタヤ時代後期。また、バンコク王朝初期には「古式ムエタイ」を代表する4つの流儀が確立するようになったそうです。素早く蹴ることを特徴とする北部地方の「ムエ・メンライ」、相手と距離をおきつつパンチを連続させ、相手からの蹴りは腕で受け止める東北部の「ムエ・コラート」、近距離からパンチを素早く繰り出す中央部の「ムエ・ロッブリー」、そしてヒジをよくつかい相手の蹴りなどを受け止める南部の「ムエ・チャイヤー」――いずれも素手素足の護身用のもの。

後者の「ムエ・チャイヤー」だけは、スクンビット通りのソイ・エカマイにあるバーン・チャンタイ道場で練習試合を見せてもらったことがあります。スタジアムで見る素早さと違って、トレーニングはゆっくりした動きで複雑な技を見せていきます。道場の先生によると、ムエ・チャイヤーには技の型が80ほどあって、それぞれにたとえば「指輪をささげる猿」「ヤシの実を蹴る馬」「大木を裂く象」「足で顔をふく」「灯火を消す」などといった独特の名前がついているとか。同行したスポーツに詳しい友人は、複雑な技をゆっくりやるのがとても体力が必要なので数分だけでも体力が消耗するそうです。ここ数年、リングに上がる目的ではなく、体力づくりの目的で道場に通う若い男女が増えたのもそのためかもしれませんね。

生演奏に合わせた舞や観客の声援も、ムエタイの一部
師匠への舞「ワイ・クルー」は約2~3分
流派にかかわらず、ムエタイに欠かせないのは生演奏とそれに合わせた師匠への舞「ワイクルー」。

ムエタイの選手は頭に「モンコン」と呼ばれる輪っかを載せ、グローブとガウンを着用するほか、首には花飾りをかけて華やかにリングに上がります。ガウンだけを抜いてまずはリングのうえでバックステージに待機している生演奏に合わせて2~3分踊ります。流儀によって若干踊り方が異なりますが、主として師匠への感謝とともに、戦いの神に勝利を祈り、同時に相手を牽制しながらウォーミングアップの効果もあると言われます。相撲でいうと塩を投げて相手を睨むようなものでしょうか。体と体がぶつかり合う前に心理戦を仕掛けるという意味では一緒かもしれませんね。

市場のセリではありません~
生演奏は舞に合わせて行われるだけではありません。試合のリズムを煽るためにも使われます。これも相撲の行司が「はきよい、のこった、のこった」と独特の言葉とリズムで動かない力士を前進させると同じです。そして、ムエタイに欠かせないもうひとつの要素は観客。まぁ、お相撲のいちばんで座布団が飛ぶこともしばしばですが、ムエタイに比べたら観客はおとなしい方です。声援はもちろん、賭けていた選手が動かなかったりしたときのヤジが半端でないですね。言っておきますが、賭けは違法です。が、はためでも多くの観客がやっているのがすぐわかります。熱が入るのも納得です。

ムエタイの国際化
難しい技で相手を倒せば賞金も高くなる
さて1929年、グローブ着用が義務付けられるようになったムエタイ。その殿堂と言われるラーチャダムナーン・スタジアムが建設された1941年をきっかけに、1試合5ラウンド/1ラウンド3分/ラウンド間休憩2分間、というルールが確立されました。とくに1956年のルンピニー・スタジアム設立以降は、貧しい東北地方の若い男の子らにとってはムエタイで一躍有名になることは富を手に入れる最速の道で、皆が賞金をめざしてバンコクへ集うようになりました。1996年、ムエタイからボクシング選手に転身・オリンピックに出場して金メダルを取ったソムラック・カムシンの成功物語は今でも語り継がれているものです。

1959年、日本にもムエタイ選手らが招待され、タイ人同士で試合が行われました。そこに現れた空手家の山田辰雄が関心を示し、新スポーツの「空手ボクシング」を提唱。後にそれが「キック・ボクシング」と少しかたちを変えながら日本にも広まるようになり、現在もなお全世界でその強さが知られ、大勢の格闘技ファンの人気を集めつづけています。

ビルマ王がナーイ・カノムトムにかけた言葉
「ムエタイの日」の催しから2週間経った今も、なぜナーイ・カノムトムを立てなかったのか、私は一人でぶつぶつ言いながら納得がゆかない日々を送っています。そんななかで、ナーイ・カノムトムがビルマ軍との試合に勝利をした際に、シンビューシン王にかけてもらった言葉があったと伝えられることを知りました。「ムエタイは実に強い。これだけの技を身につけていればビルマ軍に負けるはずはない。“一団結”さえあればですが…」でした。

シンビューシン王のいう通りです。

※写真提供:Nozaki Hideyuki

※今年2012年3月17日・18日の2日間、アユタヤにてムエタイの大型イベント「ミラクル・ムエタイ・フェスティバル(Miracle Muay Thai Festival)」が開催されると、タイ国政府観光庁が発表。このイベントはムエタイの英雄ナーイ・カノムトムの偉業をたたえる「ナーイ・カノムトム記念日」(3月17日)に合わせて企画されたものだとか。


詳しくは、World Wai Kru Muay Thai Ceremony And Miracle Muay Thai Festival (英語)をご参照ください。




2012年1月24日火曜日

「懐かしいタマリンドの酸味」


日本に住んで31年の私。思考回路は昔とあまり変わらないが、お腹はすっかり日本人になってしまいました。普段食べているのは日本料理で辛いものもそんなに欲しくなくなりました。それは「ナムプリック・マカーム」を久々口にするまでの話でした。英語でマカームのことは "Tamarind"(タマリンド)といい、日本ではそれほど知られていません。いやいや、知っているタイ人の私でもタマリンドがそんなにすごいのかは最近まで知らなかったのです。ということで、お詫びを兼ねてタマリンドのことを書くことにしました。


名前を聞くだけでよだれが…
市場で売られる甘いタマリンド
「マカーム」という言葉を聞くだけでタイ人の私は、すぐによだれが出てきます。ココナッツミルクをつかわない家庭料理のひとつである「ゲーン・ソム」の酸味を出すためにタマリンド汁が欠かせない材料であるからでしょう。地方によっては世界三大スープのひとつに数えられているあのトムヤムクンにも、ライムの代わりにタマリンド汁を用いるところも少なくありません。


固くて茶色い殻に覆われるタマリンド。中には焦げ茶色の果肉が入っていて、細かい繊維が編んだ根っこのように絡み付いていますが、乾燥していれば簡単に取り出せます。大まかに甘いのと酸っぱいのと2種類あるが、甘いのならそのままドライフルッツとして食べることができます。塩、砂糖、唐辛子をまぶしてスナック感覚で食べる「マカーム・クルック」は女子学生などに大人気。高校時代、授業中に眠気覚ましによく食べていました。対して、酸っぱいほうは中のタネを取り出して日干しした後、お湯を注ぎ、汁を絞ってカレーなどにつかいます。日本人が台所に味噌を日常に置くのと同じ感覚で、タイの人々もこの酸っぱいほうのタマリンドを冷蔵庫に保存しています。


タマリンドのそもそも
実をつけたタマリンドの樹
タマリンドを食べたことがなくてもタマリンドの樹を見ている日本人が多いかと思います。王宮前広場にラーマ5世(1868-1910在位)の命によって街路樹として365本のタマリンドの樹が植えられ、現在もその木陰で占い師や露店の人がのんびりと商売を構えています。地方各地へ行けば、民家の庭に大きな樹であちこちに生えています。若葉(雨期の6~10月)はカレーの材料に、若い果肉(冬の12~1月)は殻ごと潰してにんにくや干しエビなどを加え、ペースト状(ナムプリック)にすれば立派なおかずにもなります。


都会のバンコクから地方各地まで生えているこのタマリンドの樹。原産はアフリカでスーダンを通ってインドにわたり、さらにアラブや東南アジア、そしてラテンアメリカに広がりました。フィリピンではマラリヤに効能があるといわれる葉は、お茶として販売されているとか。タイでも葉は解熱や咳止めに、果肉は便秘解消に、そして木の皮は傷口の治癒にとさまざまな効能があり古くから薬用としても使われてきました。


日本にもタマリンドがつかわれている
甘くて酸っぱい「ナムプリック・マカーム」
アフリカから東南アジア、はてはラテンアメリカまで植えられたタマリンドの樹。葉や果肉に比べてタネはあまり活用されていないかと思いきや、製紙や繊維、食品などの産業でかなり使用されていることがわかりました。しかも、それを多く輸入・活用しているのは、日本の企業だとか。


固くて茶色いタマリンドのタネの内部は、真っ白な粉々状になっています。それを繊維やソースなど食品の粘着性を引き出す効果があり、近年日本の企業はそれをタイやインドから盛んに輸入しています。中には医療用に再加工して高価格でヨーロッパにも輸出されているとか。日本ではあまり知られていないタマリンドですが、案外皆さんの身近にあるものですね。


2年ぶり友人からもらった「ナムプリック・マカーム」に、にんじんやキュウリなど生野菜を添えて食べた今日、長い間忘れていたタマリンドの酸味や祖母の味、そして小さい頃の思い出などが次々と湧いてきます。懐かしく思うとともに、タマリンドのすごさを改めて実感した次第です。



2012年1月14日土曜日

「タイでもっとも有名な日本人?ドラえもん」



イギリス発祥のマダム・タッソ館といえば、世界各国の有名人のろう人形が展示される人気の観光地。ロンドン以外にも7 カ国11 の分館があって、そのうちの一つが2010 12 月バンコクでオープンしたもの。85 体の人形が並んでいるなか、2011 27 日に初めて日本の有名人?が登場、話題を集めています。

「アジアのヒーロー」にも選ばれる

バンコク郊外の市場で見つけました
その方とは、背そして体重とも129.3 センチ/キロで赤いドアから飛び出したように現れるドラえもんです。バンコクのマダム・タッソ館にはオバマ大統領に、マイケル・ジャクソンやベートーベンなどが並び、これまでは日本を代表するろう人形はありませんでした。ドラえもんが初めてでした。

館長さんによると、市場調査をしたところ、ドラえもんの人気がたいへん高く、設置してからもお客さんにとても満足を頂いているとのこと。タイはもちろん、アジア各国ではドラえもんは絶大な人気を未だに保持しています。2002 年には、Time Asia 誌に「アジアのヒーロー」にも選ばれているほどです。25人のアジアン・ヒーローのうち、実在しないのはドラえもんだけですよ。

ドラえもんの登場は1981年に遡る

アンパワーの屋台にも
タイで、ドラえもんが初めて登場したのは1981 年。漫画本として翻訳・出版されましたが、その時の題名は「Doraemon いたずらネコ」。ほぼ同じ時期に別の出版社からも漫画本が出され、そちらは題名を「Doremon」にしていました。当時は著作権問題が厳密にされておらず、どちらも日本の出版社から正式に許可されての出版ではありませんでした。あまりの人気ぶりで当初月間にしていたのが、2 社が競合して次第に一月に冊、そして3 冊、4 冊にしていき、一回につき7 万部もバカ売れしていたそうです。藤子不二雄さんが10 年以上かけて描いたドラえもんがほとんど順番バラバラに出版されていました。その後、大手新聞にも連載がありましたが、題名が「Doramon いたずらネコ」と、それぞれ微妙に変わりました。

今も絶大な人気

プーケット・タウンのナイト・バザールで
タイで少し微妙に違って呼ばれてきた日本のドラえもん。その後、正式に著作権を申請した出版社や放送局がそれぞれ漫画本そしてアニメの放送を始めていて、時々映画もあったり、ビデオもあり、いまでも子供たちに絶大な人気を誇っています。現在の3040代の人たちは多くがドラえもんの放送で育ち、中には日本のことをそんなに知らなくても、どら焼きを知っていたりするほどです。

先日、87 歳のわが父が「父さんはいつまでものび太くんの面倒を見るドラえもんじゃないから!」なんて頼りない55 歳の兄を叱っていたほど、世代を超えてドラえもんはどの年代の人々にも人気なのです。まぁ、あまりの人気のため、偽物のキャラクターが今でも出回っています。ここで使用している写真は、取材旅行でタイ各地を撮影した日本人カメラマン君が撮ったもの。当局も取締りを強化しているのですが、なかなか間に合わないようです。

視聴者に安堵感を与えるドラえもん


こちらもプーケットで発見!
そもそもドラえもんが、なぜそんなに人気なのか?端的に言えば、ドラえもんは日本文化そのものですかね。ドラえもんのポケットに入っているいろんな道具を通じて、多くの人は科学技術で発展してきたアジアで唯一の先進国だった日本に改めて敬意を表すきっかけになりました。また、度重なる問題が発生しても、ドラえもんは悲観的にならず立ち向かい、そして最後は必ず解決できるというストリーそのものも、同じアジア系の読者、視聴者には安堵感を提供しているのが良かったのでしょう。

ちなみに、私はドラえもんを見たのは、日本に留学してきてからでした。ドラえもんの声が大山のぶ代さんの日本語。それに慣れたせいか、タイに帰ってたまにタイ語版を見ると、違和感が先に来てしまい、ストリーになかなか集中できないものです。


バンコクのろう人形になっているドラえもんはしゃべるのかな?今度帰省したらマダム・タッソ館へ行ってみたいですね。

2012年1月12日木曜日

「宝くじ大好きなタイの人々」


毎月2回宝くじの結果発表があるタイ。仕事に身が入らなかったり、発表会場のあるバンコク都心まで詰めかけたりするほど、くじを楽しみにしている人々の間では、大切な日。また、くじの番号を当てる方法がいろいろ紹介されたり、特定な人物にまつわる数字を当たり数字と思い込んだりなどなど、くじに縁のない私には、これでもかと思うような怪奇現象が起きています。

ということで、今回はくじのことをご紹介しちゃいましょう。

1等の賞金が300万バーツ


人気数字は定額以上に売られることも。
タイ語で、くじは「ホアイ」(หวย)といいます。毎月1日と16日が結果発表日。官庁街が立ち並ぶバンコクのラチャダムヌーン通り沿いに、宝くじ局(สำนักงานสลากกินแบ่งรัฐบาลの大ホールがあり、そこで機械をつかってランダムに出すくじの結果がテレビやラジオで中継されます。それを楽しむ人も多いですが、毎回現場へ詰め寄ってホールの外まで結果が待ち遠しい人たちで溢れ返っているそうですよ。

それから、工場管理の仕事をしている知り合いによれば、地方各地では発表の日は従業員の効率が悪い。当たった人は大喜びで仕事に集中できない。外れた人は落ち込んで仕事にもミスが出やすい、とのこと。何を隠そう、亡くなった祖母も大の宝くじ好きでした。と言っても後述する違法の宝くじのほう。

さて、政府発行の宝くじですが、特別1等は一枚だけ、賞金が300万バーツ(800万円くらい)。1等は46枚あり、賞金が100万バーツ(280万円くらい)。3ケタの数字と2ケタの数字というのもあり、それぞれ20001000バーツの賞金で、当たる確率が高いのと違法宝くじの業界で大人気なのです。


違法宝くじとは、どういうこと?

こちらは、「ホアイ・タイディン」(หวยใต้ดิน)といいます。大元がいくつもあって、それぞれ複数のブローカーが各家庭や職場にも出張して注文の受付と集金を担当。当たった人には賞金を届けるという昔ながらの仕組み。結果発表は政府発行のものと同じですが、注文するときの掛け金が多ければ多いほど賞金も大きくなります。違法ですが、かなり大っぴらにやっています。私の祖母が生きていた時に、結果発表する1週間前に必ず中国系タイ人のおばちゃんが家にやってきます。私らに隠れたようにごっそり祖母の部屋に入ってなんやら紙に数字のメモをしては掛け金をもらって帰っていくものでした。20118月に東部地方で摘発された大元の供述によると、ブローカーは1回につき、1,500バーツの日当をもらっていたとか。全部で1500人もいて、出回っている総額が1億バーツ以上だそうです。東部数県だけですよ!


犬は4、死ぬは0!!

祠や寺院に当たり数字を教えてもらう人も多い。
当てる数字は、多くの場合、それぞれが好きなものを当てるだけですが、くじ通の間では次回は4とか8とかの数字が出そうだとか。夢から当てる人も多いですね。それも犬の夢だったら4、死ぬ夢だったら0だとか、夢の解釈本まで出ています。今の時代では宝くじ攻略サイトもたくさんできていますね。

最近では、タイ初の女性首相インラックさんにまつわる数字が人気らしい。首相就任当時の彼女が乗っていた車のナンバーの最後の3ケタが当たり数字になったことをきっかけに、彼女の誕生日、自宅の番号、携帯番号、しまいに先日具合を悪くして入院した部屋番号まで、くじを買おうとする人が必死に調べていたとが新聞に載ってましたね。まぁ、結局当たらず、今では下火になりました。

宝くじが好きな人たちはとにかく有名な僧侶や首相などにまつわる数字をいろんな方法で解釈してヒット数字を割り出そうとする。もちろん、ロジックでも統計でもなく勝手なままにというやりかたです。首相には、自家用車が十数台あり、誕生日に就任日、結婚記念日などなど09まですべての数字が出てきます。1回当たったからといって毎回ということはないのは当然です。


タイの宝くじのそもそも

タイ文字を当てる初代くじ
タイ全土で不況が起きた1832年頃、現金が出回らず、皆が物々交換に戻ろうとしていました。当時のラーマ3世王は、王宮に出入りしていた中国人商人に相談したところ、対策として紹介されたのは、宝くじの発行でした。当初は中国の歴史人物34名の氏名を当てるというシステムでしたけれど、漢字だったため、タイ人には広まりませんでした。途中からタイのアルファベット「ホアイ・ゴー・コー」(หวยก.ข.に切り替わり、大繁盛となりました。政府としては、請け負い業者の中国人から一定のお金を年ごとに収めてもらうことで国の収入になりました。その後、入札になり、高く落札した業者が発行責任者に変わりました。

本格的に今に近いような宝くじの発行がなされたのは1932年のこと。そして、宝くじ局の創設は1939年で、現在につづいています。違法宝くじもしっかりつづいています。


なくならない違法くじ

祖母が93歳で亡くなる数年前まで、ブローカーは私ら家族に嫌みを言われながらも負けずに家に出入りしては、祖母のお金を巻き上げていきましたね。まぁ、もともと当たらないものにお金をかける方が悪いものですからね。我が家は違法くじをやったのは祖母だけで家がつぶれることもなかったのですが、中には借金までできた家庭も多々らしい。かつてタクシン元首相はどうせタイ人は違法くじを止めないのなら、なんとか違法の掛け金を政府収入にしてしまおうと、いろいろ工夫をしたものの、やはりなくなったりしません。今でも、ときどき大元の摘発のニュースを聞きます。

4600万部発行の宝くじ。特別1等にあたるのは、4600万分の1になります。たまにくじに当たった親戚や友人からご馳走されると、くじっていいなあと思うこともありますが、くじ運のない私はこれからも買うことはないでしょう。ということで金持ちになることもないですね。